「松下幸之助とスポーツ」
「松下幸之助とスポーツ」をテーマにパナソニック株式会社にお話を伺いました。
※本記事はnote移行前の旧SPODGEで2021年3月25日に掲載した記事になります。
経営とスポーツ
ー創業2年後の1920年(大正9年)に結成した社員の親睦会「歩一会」、この発足とともに社内にスポーツ文化ができていったというお話を伺ったことがあります。「歩一会」とはどのようなものだったのでしょうか?
社員の精神指導、福祉増進、親睦慰安のために、運動会や演芸会を開催。会社の一致団結に貢献
歩一会は、所主の松下幸之助(以下、幸之助)を含む全社員28名で結成された福利増進、融和親睦を図る会。「全員が歩みを一つにして一歩一歩進んでゆく」との意味を込め、歩一会と名づけられました。
この組織が誕生した背景に戦後恐慌による社会不安があったとされています。
1918(大正7年)11月に第1次世界大戦が終結、反動不況に陥り、一時的に景気は好転したものの、1920年(大正9年)3月、株式市場の大暴落が起こり戦後恐慌に。企業倒産が相次ぎ、労働組合運動は過激になり社会不安が高まっていました。
この情勢にあって、当社の販売は好調でしたが、幸之助は「将来の発展のためには、全員が心を一つにしなければならない」と考え、「歩一会」を結成しました。
歩一会はその後、社員の精神指導、福祉増進、親睦慰安のために、運動会や演芸会といった行事を催し、会社としての一致団結に貢献しました。なお、第二次世界大戦後、GHQからの指導によって労働組合が結成され、歩一会は発展的に解散することになります。
ー戦前、戦後にかけて社内のスポーツ活動は行われていましたか?中断していた場合は、いつ頃どのようなタイミングから再開しましたか?
盛大だった戦前のスポーツ大会。戦後も間を置かずに野球大会が始まりスポーツが活発に
昭和になって軟式野球が盛んになり、当社でも多くのチームが結成されて、1937年(昭和12年)には社内軟式野球大会を開催。また、社員全員による運動会も行われるようになるなど、戦前、社内でのスポーツ活動は活発に行われました。甲子園を借り切るなど、その規模はどんどん大きくなっていきます。開催当日は、予行練習をしていないにもかかわらず、統制が取れた素晴らしい運営であったようで、来賓らが感嘆したとの記述が残っております。
この統制の良さは、命令への忠実さを表しているものではありません。1932年(昭和7年)5月5日、松下電器の真の使命を幸之助が発表した際、共感した社員が自発的に壇上で所信発表を行いました。そうした使命達成への社員の思いが、運動会の一致団結する姿へとつながったものです。この姿に、「こうした運動会が出来るほど精神的に高揚したものを持っている。感激の情感が湧いた」と発言しています。
1942年(昭和17年)からは第二次世界大戦の影響を受け、あらゆるスポーツの開催は中止となりました。
しかし終戦後、1947年(昭和22年)にはスポーツ大会を開く職場が出はじめ、1948年(昭和23年)に軟式野球の全松下チームが誕生しました。
終戦後、当社はGHQから様々な制約を受け、会社存続の危機に直面していました。幸之助は終戦翌日の1945年8月16日に民需産業に復帰すると明言。さらに1946年(昭和21年1月)の経営方針発表会では、今こそ産業人たる使命達成に邁進し日本の復興に寄与しようと訴えています。スポーツ大会、軟式野球の大会が社内で盛んになったのは、自分たちに求められている、戦後復興と会社の使命達成に向けたいち早い会社再建、その意欲の表れであり、一体感の醸成、意識向上の大きな力になったと考えます。
企業の発展とスポーツ
ー松下幸之助翁は「スポーツ奨励の件」と記した社内通達を発信されたようですが、どのような目的とどのような想いから記されたものでしょうか?
社員の士気向上と団結、ブランド力構築のため「スポーツ奨励の件」が通達される。
1950年(昭和25年)8月に通達された「スポーツ奨励の件」には、「スポーツを通じて従業員の士気を高め、全体の団結を図るべく、社として施策を一元化し、社外にも名声を高めることが必要である」と、スポーツを奨励する目的が示されています。
また、「その試みの一つとして、全松下の軟式野球チームを新しく組織して公認し、趣旨を徹底させました。業務に支障をきたさないように配慮し、チームの組織と運営に協力を」とも発信しています。1952年(昭和27年)には健全な精神、健全なスポーツによって健全な勤務を目指そうと「運動部」が発足、社内の厚生運動の充実に踏み出しました。
そして野球部は硬式に転身し、以降、バレーボール部、バスケットボール部が順次創設され、選手の補強にも取り組むようになります。さらに運動部は1957年(昭和32)、野球部、バレーボール部、バスケットボール部を中心に「体育委員会」へと発展、社長であった幸之助直下の組織としました。「スポーツ奨励の件」をきっかけに、スポーツの力を通じた社内の風土醸成とブランド構築への動きは加速していきました。
創業者が認めたスポーツの力。「明朗さ」「一致団結」「使命を気付かせるもの」
早くから幸之助は自らの経営観や人生観に合致する考えとして、スポーツの力を認めていました。
1946年1月の経営方針発表会では全国中等学校野球大会を例に、「仕事は楽しく取り組むもの。スポーツを楽しむように使命達成への活動につなげて、経営を明朗にしよう」「そうした姿勢は、日本の課題を解決することにもつながる」と述べています。
また1950年(昭和25年)1月の経営方針では「経営の最も大切なことは一致団結すること」と述べ、その年の8月に「スポーツ奨励の件」の通達をするなど、幾度となく全社員にスポーツ精神に学ぶことを発信しています。スポーツの奨励は、社員にとっても会社にとっても良き成果をもたらし、松下電器の使命達成の一助になることを考えたものと思われます。
また、繁栄には、知育・体育・徳育が重要だと、体育の位置づけを表現することもありました。
なお1964年(昭和39年)の東京オリンピックの際は、「よりよき物をつくって顧客に提供し、国民生活を高めることに、お互いが選手たらんとしている。我々は産業のスポーツマンである」と発言。スポーツマンの日々の姿勢、最高峰の試合から受ける感動が、自らの産業人としての使命をさらに強く自覚させ、奮い立たせてくれたと語っています。
スポーツの価値を知り経営に生かすことのできる人材の登用
当社のスポーツ・厚生分野の充実を語る上で外せない人物として元松下電器取締役の遊津 孟(1986年他界)の存在があります。西日本バスケットボール協会を設立し、その会長に幸之助の就任を依頼した縁から、1955年(昭和30年)に当社に入社。
一貫して人事・労政畑に従事し、労務管理や福利厚生、体育・文化の面で活躍。自ら当社バスケットボール部の監督や部長職も務めました。
幸之助の「物をつくる前に人をつくる」。この意を体現し、人づくりの側面で会社の使命達成に貢献。顧問就任時は体育委員会を中心に体育・文化活動の統括責任を担いました。企業のスポーツは明朗闊達の気風づくり、一体感の醸成、人間形成にあるとし、社内全体の体育活動を盛り上げてきた人物です。
こうしたスポーツの精神を理解し経営に生かすことのできる人材を登用したことにも、幸之助がいかにスポーツに価値を置いていたかを知ることが出来ます。
ー言わずと知れた大企業になった後も、尚、スポーツという考えに至っているのでしょうか?またスポーツ選手を採用までするに至った経緯は何でしょう?
当社は「社会生活の改善と向上を図り、世界文化の進展に寄与する」との、産業人としての使命のもとに事業を営んでいます。このため戦前には、「社業がいかに大きくなっても一商人の観念を忘れるな」と説いた内規がありました。その心得は今も脈々と伝えられ実践されています。
また、幸之助の事業観として、「世間・世界は常に変化し生成発展を繰り返す、その原理の下に会社経営を含める万物が存在する」という生成発展の考えがあります。我々はこの生成発展の中で使命達成に邁進しているのであり、会社の規模がゴールではありません。スポーツの力を導入するのは、社員が楽しく生きがいを持って働きながら、皆が一つになって使命達成のために邁進するためと考えています。
「スポーツ奨励の件」とする通達が発信された1950年(昭和25年)に軟式野球の全松下チームを結成。翌年にバレーボール部、翌々年にバスケットボール部が創設され、社内報などを通じて選手を募りました。野球部の社史には、軟式野球全松下チームが誕生したときから、幸之助は「スポーツが達者な社員を採用する方針を持っていた」と記しています。
1957年(昭和32年)に一致団結の風土づくりとブランド力向上を加速させようと体育委員会が組織された頃から本格的な選手補強が始まり、大学や高校の有力選手獲得に動き出していきます。元松下電器社長の森下洋一(2016年他界)もバレーボール選手の一人として1957年(昭和32年)に入社しました。
どのチームもアマチュアの実業団選手として「文武両立」をモットーに懸命に取り組んでいました。
スポーツへの期待
ー社内運動会をはじめて実施した経営者は松下幸之助翁という説もありますが、いつ?場所はどこから始まったのでしょうか?そこに込めた幸之助翁の想いとは何でしょう?
先ほどのとおり、幸之助を含めた社員全員の親睦会、「歩一会」活動の一環として社内運動会は始まりましたが、初開催は1931年(昭和6年)の春。天王寺公園のグランドで開催されました。その後、業容の拡大とともに従業員数も増え、当時としては珍しく、甲子園を借り切るまでの規模に拡大しています。
ここに幸之助が、「将来の発展に欠かせない、全員の心を一つにするための重要イベント」として位置付けていたことが伺えます。
ーなぜ、現代になっても、会社としてブランドイメージ向上の旗頭が「スポーツ」と考えるのでしょうか?
スポーツは、心身の健康を育むだけではなく、見る人に驚きと感動を与え、心を一つに結ぶほか、時には生きる力を奮い立たせるなど、想像以上の可能性を秘めています。
100年企業の当社が、次の100年の創造を考えるとき、未来志向の評価軸が必要であり、スポーツはそれを構築するにふさわしいコンテンツです。
だからこそ、我々はこれまで以上に本気でスポーツに向き合い、皆の憧れであり、かつ目標となる存在へと成長させていきたいのです。
そして、スポーツが持続的に発展することにコミットし、スポーツ人口の拡大に力を注ぎます。スポーツの感動は人を笑顔にします。人の心を豊かにすることは、くらしに寄り添い続けるパナソニックの願い。こうした考えからスポーツは、当社ブランドイメージ向上の旗頭である事に変わりはありません。
ー社内の有力なスポーツチーム全てを「Panasonic Sports」とし、皆の憧れであり、かつ目標となる存在へと成長させるためには、競技成績以外で何が必要だと考えておられるのでしょうか?
当社のスポーツチームの実力は、それぞれ日本トップクラスを誇っています。
これを踏まえ、一つには、競技を超えたトップアスリートの交流を促進。お互いを理解、良き点を貪欲に吸収し、応援しあう風土の確立に着手しています。こうしたパナソニックスポーツ所属ならではのメリットの活用は、フィジカルやメンタルの向上だけではなく、ブランド意識の自覚にもつながると考えます。
一方、各競技の発展に寄与し、地域とのより良い関わりでスポーツ界全体の向上を目指すことも、パナソニックスポーツの存在感を左右する重要な要素です。このため積極的な共創活動を行っています。
例えば、ホームエリアの移転を行うラグビーは、新旧ホームエリアと手を携え、ラグビーを通じた地域振興協定を結んだほか、チーム・事業の運営、選手の強化育成を目指し海外のチームと業務提携を行いました。
また、スポーツをする人、見る人、それらを支援する企業ら、3者の楽しみを広げることも、パナソニックスポーツの価値向上につながります。これには、スポーツを起点にした新規ビジネスの創造が必要です。ここでもキーワードは憧憬。驚きなり感動のトリガーに成り得るものとデジタルソリューションを掛け合わせ、まずは運営型事業の強化に着手したいと考えます。付随するコンテンツ・サービスとして、ファンクラブの結成やファンとの接点強化の施策、試合チケットやグッズ販売にも力を注ぎます。
スポーツを切り口としたこの挑戦をパナソニックが先陣を切って取り組むことで、スポーツの可能性を広げ、より豊かな人のくらしの実現につなげていきたいと思います。
参考URL
パナソニックスポーツ:https://panasonic.co.jp/sports/history/
松下幸之助.COM:https://konosuke-matsushita.com/
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