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市立船橋のスーパースター、元Jリーガーのカレン・ロバートさんが今挑戦しているサッカービジネスとは

GUEST:カレン・ロバート

元Jリーガー。ポジションはフォワード、ミッドフィールダー。市立船橋高校時代に選手権優勝を遂げた。現在は房総ローヴァーズ木更津FCを運営するローヴァーズ株式会社の代表取締役。


今回は、市立船橋高校時代に選手権優勝を遂げた高校サッカーの花形選手で、元Jリーガーでもあるカレン・ロバートさんにインタビューさせていただきました。
今は、経営者としてご自身のクラブを持ちながらご活躍されていますが、どのような想いで経営をされているのか、これから先どんなことを成し遂げたいのか、赤裸々に語っていただきました。

※本記事はnote移行前の旧SPODGEで2018年6月21日に掲載した記事になります。


全国優勝からJリーガーへ

ーカレンさんがサッカーを始めたきっかけを教えてください。

出身は茨城県土浦市で、そこまでサッカーが盛んではありませんでした。7個上の兄がボールを蹴っていたのを見て、僕も自然と蹴り始めたって感じです。

ーサッカーを始めて、どのあたりから注目され始めたんですか??

間違いなく全日本少年サッカー大会からですね。小学6年生の時に、千葉県代表で柏レイソルの一員として出場し優勝しました。ハーフなので目立っていたと思います(笑)ボランチで出場し、点も決めることが出来たので、新聞とかに載せてもらえました。

ーカレンさんはFWのイメージが強いです。

最初ディフェンダーですよ。そこからボランチ、右ハーフ、FWという流れでいろいろポジションが変わりました。

ー過去、挫折とかはありましたか?

1度だけありました。
小学5年生の時、DFだったのですが、足先だけでプレーしているようなタイプだったので、よく抜かれていました。プレースタイルも全然直らずで、一回レギュラーから外されて、4年生の試合に出されました。1個下の試合に出るのはきつかったですね。
その時色々言ってくれていたのが村井監督って方だったんですが、今でもすごくターニングポイントの人だと思っています。

ー高校の部活で上下関係が厳しくて大変だったなどはなかったんですか?

それはなかったです。
あまりいい表現ではないんですが、幸か不幸か、2個上が歴代で一番弱かったと言われる世代で。選手も集まっていなくて、それで1、2年生にチャンスをもらえたって言う感じですね。そのまま千葉県の選手権予選に出させてもらいました。高校では2年時に全国優勝もすることができました。

ー高校卒業されて、ジュビロでJリーガーとしてプレーしますが、国外という選択肢はあったんですか?

当時はあまりなかったですね。日本代表になったら、海外に行けるという感じだったので、「代表になるために国内クラブ」がまず先でした。

ージュビロではどのくらい試合に出られたんですか?

110試合くらい出ていましたかね。4年くらいやっていたんですが、そのあと膝の持病などあり、手術をしましたがいい方向にいかなかったです。
プロのスタートにジュビロ磐田選んだ理由の1つは、憧れの選手がたくさんいたということですね。その中に藤田俊哉さんがいるんですが、俊哉さんの代理人が、僕がロアッソ熊本でプレーを始めた時にヨーロッパでやってみないか?と声をかけてくれて。そこから「チャンスあるなら」と前向きになったところに、フェンロ(VVV)の話がきていましたね。

ー千葉でやられていたのに、あえてジュビロを選択した理由は?

当時のジュビロは2002年に完全優勝したレジェンドたちが残っていました。みんな代表レベルの人たちばかりでしたね。
練習参加させてもらったときも「すごいレベル高いな」という印象でした。最初はレイソルに行こうと思っていたんですが、3年間は試合に出られなくてもいいから高いレベルでやってみようと思って決めました。

国外での活動

ーひたむきにという感じですね。ジュビロに行かれて4年やられて….その後はどんな感じでした?

ジュビロには6年半在籍していたんですが、試合に絡んでいたのは4年くらいで後半はケガが中々治らなくて、それでジュビロを契約満了になりロアッソに入団しました。

ーだいぶ失礼ですが、市船のスター、カレン・ロバートはプロでもっと活躍すると思っていました。世代でも最高レベルの選手だと。

まさにプロの壁ですね。補強の最優先ポジションはFWなので少しでも結果が出てない期間があると高いお金でクラブは補強します。アマチュア時代にはないことだったので、そこの現実を理解するまで時間はかかりました。

ーこれも失礼を承知でお聞きしますが、プロに入った後、周囲やご自身が描いていた活躍にはいたらなかったと思うのですが…どのような要因があったと考えていますか?

結論、時代のサッカースタイルと合わなかった感じはありましたね。笑い話じゃないんですが、僕はすごくヘディングが苦手なんです。理由は痛いから(笑)。
当時は4-4-2というシステムで、外からクロスボールを上げてヘディングシュートでゴールという形が多くありました。正直、今の時代のプレースタイルの方が僕には合っているかなと思いますね。

ーフェンロに行かれた後はどうでした?

日本とオランダサッカーの違いを痛感して、2年ぐらいたってやっとわかってきたくらいでした。あと半年って時にあまり試合に絡めなくなって満了になったんですよね。

ー違いっていうのは具体的には?

評価基準が違うなと。「犠牲心」みたいな、チームのために、といった日本の美学に対して、オランダはとにかく自分のエリアで勝つ。攻撃的です。組織ではなく個人。要するにオランダリーグはいわゆる育成リーグで、そこからプレミアリーグとかブンデスリーグとかのお金があるリーグに移籍することに気づくまでが遅かったです。

その後、タイからオファーをいただいて、オファーがあるならやってみようってことでそっちにいきました。27~28歳の時でした。

ーまだ年齢的には老け込むお歳じゃないですよね?

終わりじゃないですけど、第一線から落ち、日本代表もない。一時的にモチベーションを見失ってしまった時期でした。タイに行った時点でヨーロッパに戻るのは難しいなと思っていたし、クオリティもそうですし間違ったところに来てしまったなという感覚でした。まぁ選択肢もなかったのでしょうがないですけど。

ー当時、ミャンマーとかタイとか、東南アジアのリーグでプレーしていた選手はいらっしゃるのでしょうか?

猿田浩得(さるたひろのり)さんというタイでサッカーをやっていた選手がいて、タイで日本人選手の道を開いたパイオニア的な方です。
猿田さんは最初ものすごい給料が安い中でプレーをしていたようですが、タイの中で日本人選手の価値を高め、レジェンドとして裕福な生活ができるようになったとお聞きしました。

ーカレンさんがタイからオファーが来た時の待遇はどのような感じだったのでしょうか?

日本やオランダと比べ、今までで一番よかったです。それで(現在経営している)フットサル場を作れたようなもんですよ。

ー驚きです!タイでプレーした後は、ソウル、インドと移籍していらっしゃいます。お聞きしていると、タイでは結構収入面は安定していた感じですが、その他の国々ではいかがでしたか?

韓国はタイとほぼ同じ待遇でした。すごくよかったですね。正直、インドはそこそこって感じでしたね。

引退後のキャリア

ーそうなんですね。先ほどフットサル場とありましたが、現在、フットサル場やサッカースクールを運営しています。引退後のキャリアを考え始めたのはいつからでしょうか?

オランダ時代からですね。出場できない時間が多く、いろいろと考えることが多かったんですよね。当時、20代後半だったので、自分の将来について考えていました。
実際に2013年にサッカースクールから始めてみようと思い、千葉県佐倉市に作ったのが始まりです。作ってみてまずはやってみようって感じでした。
今のところは順調に毎年何かしらイベントを開催しているので、上手くいっているのかなと思っています。

ー企業勤めとか、就職するっていうのは考えていなかったんですか??

全く考えなかったですね。自分には合っていないとなんとなくわかっていました。であれば、何か自分で取り組んだ方がいいし、自分が作り上げたいことに対して自由度のある仕組みが欲しかったんですよね。

ーサッカー領域で何かに取り組むことが素晴らしいことだと思います。

間違いないですよね。サッカー界でも自分のコート持てば勝ちって言うのは昔からあったんですよね。作れない人の方が多い中で持つことができました。

ー初期投資など莫大な費用がかかるイメージです。お答えできる範囲で構いませんが、千葉のコートはおいくらくらいしたのでしょうか?

4,000万円くらいですね。しかも手元現金がないと建てられないんですよ。
Jリーグでやっていると、便利な日本だし車とか洋服とか、食事とかいろいろ浪費しちゃうんですよね。なので、意外と貯まらない選手が多いと思いますよ。
海外でサッカーする場合、待遇の中で車や家もあるので、自動的にお金が貯まると思います。あと僕の場合、運よく母親がお金の管理をしてくれていたのでそれはかなり大きかったと感じています。

ーご家族は国をまたいで移籍が頻繁に起こることに、理解は得られたんですか??

まったく気にしてないですね。おそらく関心がなかったと思います。(笑)家族は浜松に住んでいますが、僕が家族に会いに行くスタイルです。今も家族が浜松で、僕は千葉に住んでいますが、来年子供が小学生なるので、木更津に一緒に住む予定ですよ。

ー引退後の話にどんどん進んでいますが、コートを作られて、主な収益っていうのは、コートの利用料がメインですか?

メインはスクール料ですね。あとはクラブ。ジュニアユース。あとはフットサルの大会とかですね。

ー集客というか、生徒さんはどうやって集めたんですか??

本当に縁もゆかりもないところにポンと作ってしまったので、OPEN当時はお客さんが来るかどうか心配していましたが、無料体験を多くして、お客さんとコミュニケーションを重ねて僕らがどんな組織か理解いただきました。そうしたら数ヶ月で80人くらいが体験に来てくれました。嬉しかったですね。多くの方に支えられ、最初から赤字経営をすることがありませんでした。

ー初期投資による赤字がないのは、ビジネスとして素晴らしいですね。

最初、スクール事業は2~3人くらいの生徒でスタートするので、苦労すると話もよく聞きますが、イオンの敷地内にあるというのがまたすごく大きな影響があったと思います。広告を出していただけることもそうですが、もともと利用されていたお客様が見るわけですからね。

ー今後の展望はどうお考えですか??

正直サッカースクールと施設運営だけでは拡大出来ないっていうのはわかっているので、自施設によるサッカーチームの合宿受け入れとか、サッカー留学支援とか、+αで色々とやっていこうって考えていますね。留学支援は僕のつながりを通じてイギリスでの留学を考えています。色々施設数自体も増やしていこうって思っています。

ーフットサル成功要因は、子供と女性もプレーしやすいってことですか?

それもありますし、モールなどの商業施設からしてもネットスーパーが増えている中で、集客できる導線が出来るというところがよかったんだと思います。僕らはまだサッカー環境が整ってないところに施設を作っているので、そういう地域だと夜は照明が付かないところも多いので、そういう面では沢山来ていただいていますね。

ー社員は何名くらいいるんですか??

今は僕含め7名であとアルバイトを何名か雇っています。今度合宿施設を作ったりすること考えていかないと強いクラブを作っていけないのでプラスアルファで何か事業を増やすためにも人は採用したいですね。

ー本日は面白いお話をお聞かせいただいて、本当にありがとうございました!お話をお聞きし、カレンさんみたいな方を増やしたいと思いますし、そういう方々を増やせば、学生アスリートがスポーツを続けることにもっと臆病じゃなくなるので、スポーツの活性化にもつながると思っています。

サッカーの人たちがいろいろな形でセカンドキャリアを作ることで、受け入れ先も増えますからね。僕も様々勉強になりました。ありがとうございました!