少年よ、大志を抱け!卓球界のレジェンドが伝えるスポーツの価値とは ~関西学生卓球連盟会長 髙島規郎さん、世界卓球選手権平壌チャンピオン 小野誠治さん~
左から:小野さん、高島さん
GUEST:髙島規郎(たかしまのりお)
※写真右側
関西学生卓球連盟会長。現役時代は数々の大会で優勝し、「ミスターカットマン」の異名を持つ。指導者として、日本代表男子監督を務め、元日本代表松下浩二選手(現Tリーグチェアマン)を始めとして、カット主戦型の選手の指導・助言にあたる。近畿大学名誉教授を務める。
GUEST:小野誠治(おのせいじ)
※写真左側
卓球男子シングルス元世界チャンピオン(小野選手以来、日本には男女含めてシングルスの卓球世界チャンピオンは生まれていない)。1979年第34回世界卓球選手権平壌大会男子シングルスにて世界一に輝く。「カミソリスマッシュ」と呼ばれた超高速のフォアハンドを武器に優勝した。
※本記事はnote移行前の旧SPODGEから2020年11月2日に掲載した記事になります。
関西学生卓球連盟が目指すもの
―高島さん、小野さんよろしくお願いいたします。まず、高島さんにお聞きします。現役時代と今の卓球界はどのように変わりましたか?
私たちが現役の頃、卓球はアマチュアスポーツでした。1988年のソウルオリンピックの時に初めてオリンピック競技として卓球が採用されましたが、外国では既にプロ選手がいる中で日本選手は全員アマチュアでした。お金は関係なく、自分の卓球を追求し、名誉を勝ち取ることが目標でした。
今の選手は、Tリーグ(プロ卓球リーグ)ができ、勝敗が賞金やスポンサーに関わるのでプレッシャーの種類が違うと思います。
今の現役選手たちとは様々な考え方が違うと感じています。
―現在、関西学生卓球連盟として注力していることはどのようなことでしょうか?
関西の大学卓球レベルを上げる取り組みを行い、関西から日本のトップや世界を狙える選手を輩出したいと考えています。
卓球の強豪大学は関東に集中しているため、高校時代に活躍した選手たちは関東へ行ってしまいます。ですから、関西の大学で頑張る選手たちをサポートし、お互いが切磋琢磨できる環境作りに連盟として注力しています。
大学卓球の問題として、各大学やチーム同士の交流が少なく閉鎖的な環境であることが挙げられます。私は選手の成長を考え、関西の選手達に海外遠征や国内合宿をさせるなど、選手が自ら学ぶことができるようなオープンな環境を作っていきたいと思っているんです。
以前、日本人のプレースタイルに似ているスウェーデン選手を指導したことがありました。彼は後にスウェーデンでチャンピオンに輝く選手になったのですが、それはさておき私が指導している中で驚いたことは、「世界大会へ出場するとき、ベンチコーチは高島がやってくれ」とお願いをされたことでした。
外国人がコーチをすることは当時の日本ではありえないことでしたし、チームや選手にとって一番良い方法を常に考え抜いていることに驚きました。必要な情報や知識を自ら集め、勝つために必要なことをコーチや選手が考え抜く姿勢が大切だと思います。
私は近畿大学出身で監督として10数年指導していましたが、過去には全国大会でも優勝したことがあります。関西(の学校・選手)でも日本のトップを取れるという自負がありますし、日本を背負う選手の輩出に向けて連盟として一生懸命サポートを行っていきたいと思います。
大きな志を持つべし
―卓球の技術以外の側面ではいかがでしょうか?卓球を通じて目指す人間育成などありますか?
感性の高い人になってもらいたいと考えています。
よく、子ども卓球大会に来る保護者へ「遠征へ行く時は、その土地の歴史や文化などに触れる機会を作って欲しい」と伝えています。いろいろなものに触れることで広い視野を持てますし、その子の感性が磨かれると思います。
感性の高い子は目配り・気配りができますし、自ら考えられる。こういう子どもは大きく成長しますからね。
―では、学生たちに望む社会人はどのような人でしょうか?
自ら動ける人になってほしいと思います。
先日、「選手をつぶす指導者なら、選手がコーチになればいい」という本を出版したのですが、選手間でコミュニケーションを行いお互い切磋琢磨する。そして、卓球が強くなるための情報を自分から取りに行って欲しいです。
練習中は選手間でディスカッションをして、良いポイント・改善ポイントをお互いに話し合う。PDCAサイクルを回していくことで自分に必要なものが見つかると思います。そして、好奇心や探求心を忘れず、必要な情報は積極的に獲得してもらいたいです。
―スポーツから学ぶことができる大きな要素だと思います。
私は1973年に全日本チャンピオンになり世界選手権へ出場したのですが、世界選手権では勝利することが出来ませんでした。
なぜ、負けるのかと考えたときに、「外国人の友達がいない=対戦相手のことを理解していない」ことに気付きました。
その後は大会がある度に、外国人選手の友達をつくろうという想いで、毎晩ヨーロッパ選手の部屋を訪ね歩きました。外国人選手と仲良くなった私は、車に同乗させてもらったり、食事を一緒に取るなど、同じ時間を共有することで大切なことを発見したんです。
外国人選手は小さな時から「1ポイントは自分の力で取りなさい」という教育をされていることに気付きました。試合中、劣勢になると目の色を変え、ガンガン攻める卓球をしてくるんですよ。
この1ポイントに入れる気持ちやハングリー精神が勝つためには重要なことだと感じました。
私の頃のように体当たりで情報を取得せずとも、今はネットで自由に情報をキャッチできる世の中です。もっと、視野を広げて自分の必要な情報を獲得してほしいと思います。
―関西学生卓球連盟でも就職活動と部活動を頑張る学生が多くいると思います。彼らに一言メッセージをお願いいたします。
私は卓球を14歳から初めて55年続けています。一つのことをやり続けることは非常に重要だと考えていて、続けたことで多くの学びや出会いがあります。
もしかしたら、新卒入社した会社が自分に合わないかもしれない。でも、すぐに諦めず1,2年は歯を食いしばって頑張ってほしいと思います。誰でも失敗はある。そんなときでも、前を向いて仕事に取り組んで欲しいと思います。
卓球世界チャンピオンの誕生秘話
―高島さんありがとうございます。続いて、小野さんに質問です。卓球界もTリーグができ、大きく変わりました。先ほど高島さんが仰っておりましたが、各国はプロの中、小野さんはアマチュアで世界一に輝きました。世界一を取れた理由は何だと思いますか?
小野さん:私が世界一を獲るなんて夢にも思っていませんでしたね。振り返れば、ただ漠然と「強くなりたい」という気持ちで日々の練習を取り組んでいました。
私の5歳上が高島さんですが、世界一を目指し、夜遅くまで練習する姿がありました。目の前で憧れの選手が練習している姿を見て自分も追いつきたいと思い、半年の間ボール拾いや審判などサポートを行っていました。
ある時に「ちょっと球を打ってみよう」と練習に誘われました。私はカット打ちが苦手で、相手コートに返すことが出来なかったんですが、「小野がフルスイングをしたら打ち返せる球を打つから、とにかくフルスイングをしなさい」と私の練習にお付き合いいただきました。
同じ回転や高さを維持して球を打つことは、とても難しいことなのですが、高島さんは必ず同じ球を打ち続けてくれました。
私は高島さんと出会えたことが私の卓球人生の中で大きな分岐点であり、世界一を獲得できた理由だと思っています。
―高島さんとの出会いが小野さんの卓球人生の中で大きなウエイトを占めているのですね。
小野さん:世界一を獲得した選手権の時はただただ夢中にラケットを振っていました。試合が出来ることが嬉しくて卓球を楽しんでいたと思います。
準決勝までは問題なく進出できたのですが、準決勝では劣勢になり追い込まれました。「もう全てやり尽くした」と頭に過ったのですが、ふとベンチを見るとベンチコーチの高島さんと目が合い「打て!」と頭の中に声が聞こえました。
そこからはあまり良く覚えていませんが、とにかく球を打ち返すことだけを考えていると気付けば私の勝利で試合が終わっていました。漫画のような話ですよね。
準決勝を乗り切りついに決勝を迎えました。
試合開始時間ぎりぎりまで練習をして会場に向かいドアを開けた瞬間、24,000人の視線が私に集まりました。「すごい場所に来てしまった・・・」と不安になりましたが、高島さんの「自分を信じて打ち返せ」という一言で我に返りました。
試合になると会場全体の視線や音がシャットアウトされ、対戦相手の球を打ち返すことだけに集中が出来ました。不思議な感覚でしたね。いわゆる「ゾーン」と言われるものに入ったと思います。
決勝も気付けば勝利していたという感覚でした。
高島さん:1979年北朝鮮の平壌で行われた世界大会で、24,000人の現地観客で埋まったアウェイの中、行われた試合でした。
決勝で対戦した中国選手は強敵でしたが、私は必ず勝てると思っていました。
なぜなら、相手は小野選手に勝てると思い試合に備えていませんでした。そして、当時の小野選手は神がかっているわけです。
打つ球が面白いくらいにコートに入り点数が増えていく。結局、対戦相手は無理な玉に飛びつき、太ももの筋肉が断裂して途中棄権をしました。世界選手権の決勝戦で「戦えません、参りました」というところまで追い込んだすごい試合でしたね。
卓球(スポーツ)が持つ力
―凄い経験ですね。スポーツは何が起こるのか予想ができませんね。
高島さん:少し話が変わりますが、スポーツが持つ力と言えば日中国交正常化のピンポン外交があります。
1971年、当時19歳で名古屋大会に出場したんです。中国では文化大革命があり国際スポーツ大会へ参加ができない状況にありました。そこで、日本卓球協会の会長が動き「中国チームを大会へ出場させないか」と呼びかけました。
卓球と中国は深い関係がありますから、まずは卓球の国際大会に出てきたらどうかと誘い中国選手は出場することが出来ました。これをきっかけに米中、そして日中国交正常化に向けて動きだしました。
つい先日もコロナウイルスの影響で、国外に出た中国卓球選手団が中国へ帰れない事態が発生しました。練習する場所はないですし、国に帰れない時に、日本に来てはどうかと卓球協会が手を差し伸べました。
スポーツは時には時代を動かす力になると思いますね。
―小野さん、世界を目指し、今も練習に励んでいる卓球選手へどのようなメッセージをお伝えしますか?
小野さん:何事も勇気を持ちトライし続けて欲しいと思います。私の持ち味はスマッシュでしたが、どんな球が来てももっと強い球で打ち返そうと思っていました。様々なプレースタイルがありますが、どんな球がきても自分を信じてもっと強い球を打ち返して欲しいですね。
世界大会がある度に、共同通信の方から「日本人が優勝したらすぐに小野さんへ連絡しますね」と言われていますが、まだ連絡がないんです。(笑)私が優勝して41年たちますが、早く記録を塗り替えてほしいと切に願っています。
―高島さん、小野さん、ありがとうございました!