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パラ陸連の理事長が語るパラスポーツの国際化

GUEST:三井 利仁(みつい としひと)

日本福祉大学スポーツ科学部 教授。一般社団法人日本パラ陸上競技連盟にて専務理事を務める。元アメリカンフットボール選手。


スポーツの価値や可能性について、スポーツ界で活躍されている方にお話を伺っていく趣旨で連載をしています。今回は一般社団法人 日本パラ陸上競技連盟の理事長も務めていらっしゃる三井さんにインタビューさせていただきます。

※本記事はnote移行前の旧SPODGEから2018年11月21日に掲載した記事になります。


アメフト三昧の生活から、病院実習中にパラスポーツに出会う。そこには苦しそうにスポーツをする人がいた


ーはじめに、三井さんがパラスポーツに関わるようになったきっかけを教えていただけますでしょうか?

高校からアメフトをはじめて、東海大学へはフットボールで推薦入学しました。学生生活は競技中心でしたね。

パラスポーツに興味を持ったきっかけは、大学3年生の時、実習先の病院(編注:神奈川リハビリテーション病院)の患者さんに読売ジャイアンツの選手や、明治大学ラグビー部の選手、釜石ラグビーチームの選手など有名な選手がいました。

実習では患者さんのリハビリテーションを担当したのですが、通常の理学療法(PT:運動機能の維持・改善を目的に運動、温熱、電気、水、光線などの物理的手段を用いて行われる治療法)ではなく、体育館やプールなどでスポーツを使ったリハビリをやっている病院でした。そこでリハビリに取り組む患者さんはスポーツをやっているにも関わらず、まったく楽しそうな顔をしていないんです。

-楽しくないスポーツは想像できないです。

そう。スポーツは楽しいものなのに、辛いことをやらされてることに驚きました。

学生ながらも、楽しみながら取り組めるスポーツなら、もっと楽しく治療やリハビリができるんじゃないかと感じました。その後、実習を終えた後も部活のオフに、自主的にその病院に通うようになりました。

自主的に通う中で出会ったのが、数々のパラスポーツでした。車椅子バスケットボールやアーチェリー、パラ水泳、中には車椅子の陸上競技に取り組む方もいらっしゃいました。

患者さんたちが退院してからもパラスポーツに通ってる姿を見て、何かパラスポーツに関する仕事で役に立ちたいという感覚が自分の中に出てきました。通っている病院へ相談したのですが、採用はしておらず。

ただ、「今度、東京都が障がい者の方向けにスポーツセンターを作る」と聞き、課長さんから推薦いただく形で、東京都にできる障がい者のためのスポーツセンター(現:東京都障がい者スポーツセンター)に採用していただきました。そこでは、新卒から20年間あまり働きました。

ー障がい者センターでは、障がいを負いながらもスポーツをする方が通われると思いますが、主にどんな目的、目標をもってセンターに来られるんですか?

「体のケアをしたい」、「障がいを軽くしたい」という背景から、最初はストレッチをやったり、自転車をこいだり、といったところから始まって、徐々にプールに入ってみましょうとか、泳いでみましょうかとか段々ステップアップしていくわけです。そうすると今度は外に出てみたいと自ら意欲的になるんです。

最初から「ダイビングできる?スキーできる?」と聞くと、できるともやりたいとも言いません。しかし、スポーツセンターで指導者を20年やってるとダイビングやスキーもやってみたいと思う人もでてきます。
ただ、指定管理制度ができて、東京都からそこまでサポートをする必要はないと言われたように感じました。

それなら自分で起業し、アクティブにスポーツをしたい障がい者のサポートする会社を作りました。さらに、沖縄の石垣島でカヌーやダイビングができるバリアフリー事業を展開しました。

ー障がい者スポーツに出会ったのも、スポーツセンターでのお仕事に出会ったのも、ご縁ですね。三井さんご自身がそれを引き寄せられているんでしょうけど、良縁ってどういう人のところにくると思いますか?

抽象的ですけど、良い情報だと定義すると、基本的に良い情報は人が集まるところに良い情報が集まります。逆も然りで、情報があるところに人もまた集まります。それをコントロールするには、情報の発信ができる人間になれるかどうかだと思います。

だから今の時代は SNSで盛り上がれます。まず、積極的に人が集まるところにいき、知識と経験を積み上げインプットする。またそれをアウトプットできるように、SNSなどに親しんでおく。そうすれば、良い情報の発信源にまた良い情報と人が集まってくる。それがご縁ではないでしょうか?

僕の場合はコーチ業と大学教員を務めているので、論文と課題研究もやります。
研究については、課題を吸い上げ、調査をする。その研究結果を発信すれば、また新しい課題が見つかります。その流れを続ければ、人が集まってきて良いご縁もいただけると思います。

ーありがとうございます。話題を変えますが、パラ陸連の理事長になられるまではどのような経緯でしたか?

もともとパラ陸上の強化をしていました。そんな中で、2000年のシドニーから教えていた選手が国際大会でアクシデントに巻き込まれました。弁護士も呼び対応したのですが、結局メダルが獲れませんでした。

その時に、周りから言われたのが、「国際はルールを知っていたのか」という言葉でした。選手もショックでしたが、私もその時に、指導者として国際ルールを理解していないとダメだと強く思いました。

それをきっかけにルールや各国の言語を勉強していたところ、国際感覚が養われ当時パラの世界では珍しかった国際役員に就任することを命じられました。さらに、国際審判の資格試験を受験したところ、見事合格しました。

パラ陸上の国際化を目指すため、当時の理事長から「組織論に詳しく競技を理解し、海外との連絡が取れる人がトップに」と指名され、2012年に東京五輪に向けてパラ陸上連盟を法人化し、私が理事長に就任しました。

障がいを売りにした。収益を生み出せる法人に変えるために

ー日本パラ陸上競技連盟として正式に法人格となったことで変わったことはありますか?

まず、会費やスポンサーを付けて、自分たちで収益を生み出せる団体に変えようと。そのためには競技として強くなければいけません。
選手たちにも日の丸を背負うことになるという自覚を持たせる。当然国やスポンサーからのお金を使うわけですが、それには選手や団体としての義務が付きまといます。企業からしたらギブアンドテイクなわけですから。

そこで僕らは、思い切って「障がいを売りにしよう」と考えました。

例えばボールペンの形でも持ちやすい持ちにくいはあるか、車でも乗りやすい乗りづらいはあるかなど、障がいを売りにして「ブランディング」をしようと振り切りました。結局のところに費用対効果があれば企業さんは我々の団体に費用を出してくれるということで。

ー反対意見も当然ありますよね?物議を醸しそうですが。

ありました。障がい者を見せびらかしにするのか、障がい者を売り物にするのか?といった捉えられ方をされたんですが、丁寧に私たちの思いや取り組みをお話しました。

2020年後の生き残りに向けて、自主財源をしっかり持たなきゃいけません。

我々の持つ知識や経験、障がい者だからこそのノウハウを提供することによって、資金の供給元(スポンサー)と良い関係でいられると考えました。
いわゆるスポーツマーケティングの世界ですよね。
ただ、単純にお金を提供してもらうという関係ではいたくありません。我々の提供する何かを買ってほしい。パラ陸上に価値を感じて、長くずっと付き合ってほしい。パラスポーツってそんなにメジャーじゃないので、僕らを商品としてみたときにぼくらがいくらに相当しますかというところで見てほしいと考えていました。

普段思い浮かべる障がい者のイメージと、パラアスリートとのギャップを感じて、驚いてほしい。こんなにも強く、速いのかと。


ー我々も今、パラスポーツを取り入れた企業向けの教育・研修事業を立ち上げて取り組んでいますが、三井さんが考えるパラスポーツの魅力を教えていただきたいです。

一言でいうと意外性です。自分が思っている障がい者のイメージと、現実の彼らとのギャップを感じて、驚いてほしい。彼らはこんなにも強く、速いのかと。パラリンピックを通じて、自分が思い描く障がい者の固定概念を壊してほしいです。

結構、パラアスリートは記録を更新するんですよ。
競技が未熟だからなのか、道具の進歩なのかはさておき、それがすごくプラスに動いているところを感じてほしいです。

―最後に、パラスポーツの領域で様々な経験をされた三井さんから、スポーツをやっている方へメッセージをお願いします。

皆さん言うことですが、スポーツの可能性って無限に広がっています。例えば、スポーツというキーワードで新たなシステム開発をするとか、スポーツHRで人づくりをするとか、今度はヘルスケアで生理学的に、とかまだまだ未開発な領域ばかりなので、スポーツを介して挑戦できることは本当にチャンスだと思います。

特に2020年が待ち構えている今生きてる人達は、チャレンジして得られるものが本当に大きいだろうし、ポスト2020ももっと可能性が広がると思うんです。せっかく日本のスポーツ界の裾野が広がっているので、まず自分からその中に飛び込んでもらう。可能性は無限大なのでも、そこにいかないと体感できないことばかりなので。