小さな気配り、心配りが「共に生きる」環境をつくる。~デフサッカー日本代表監督 植松隼人~
GUEST:植松 隼人
デフサッカー(生まれつき難聴を抱えた選手によるサッカー)日本代表監督。1982年、東京生まれの37歳。2010年、ろう者フットサル日本代表に選ばれ活躍。
2014年からコーチに就任。その指導者経験を買われ、2017年10月より、デフサッカー日本代表監督に就任する傍ら、品川でサッカースクールを運営し子どもへの指導を行っている。
2021年のデフリンピック優勝を目標に戦っている。
一般社団法人日本ろう者サッカー協会: http://jdfa.jp/
スペシャルインタビュアー
松本 知樹 以下:―(松本)
スポーツフィールドで管理本部に所属する障害者雇用1人目の社員。生まれつき感音性難聴を抱えており、会話はほとんど右側で聞き取っている。補聴器を外した場合、耳元で大声叫ぶとやっと聞こえるレベル。
小学校3年生から現在まで野球を続けており、野球が大好きで時には東京から大阪へ出向き練習・試合に参加するほどである。
愛称は「まっちゃん」。
※本記事はnote移行前の旧SPODGEで2019年8月1日に掲載した記事になります。
目が耳の代わりになる
ー植松さんは聴覚に障がいをお持ちですが、どのくらい聞こえているんですか?
障がいがなく見えるでしょ?説明が難しいんですよ(笑)
僕は生まれつき重度の難聴で、100デシベル(電車が通る時のガード下)がやっと聞こえるくらいです。
今、左耳だけに補聴器を付けていますが、周りに雑音が無いのではっきり聞こえています。昨年、突発性難聴で右耳が聞こえなくなり、右耳は諦めました(笑)
ー今は左耳だけで判断しているんですね。
そうですね。左耳の音と口の動きで言葉を整理しています。周りに雑音があれば正直、判断がしづらいですね。
あと、苦手なのは唇があまり動かない人は理解が難しいので、口を大きく動かしてもらうか、筆談かスマホで文字を入力してもらいます。
―(松本)植松さんのおっしゃる通りです。音も聞きますが、唇の動きは僕らにとって言葉を理解する大切な判断材料なんです。
口パクで行う伝言ゲームは、僕らの場合、目が養われているので簡単に理解できるんです。
よく、スポーツ選手は目が養われているといわれますが、「観察する力」なのか「言葉を理解する力」なのか全く違う力で僕らは後者です。目が何を発達させているのか、自分がどういう発達をさせていきたいかで強くなります。
―目が耳の代わりになるということですね。
そうです。ですから唇の動きがわからない場合、例えば、マスクを付けたまま話をされると本当に困ります。その時は、逆に僕が口パクします。
そうすると必ず「何を言っているのかわからない」と言われるので、「僕は今あなたと同じ感情でした。マスクを外してもらえますか?」と伝えることもあります。
ー人の「表情」を見て言葉を理解しているんですね。
おっしゃる通りで、表情が一番重要です。
聞こえない人の世界は言葉が少ない代わりに表情が豊かなんです。自然と溢れ出てくる表情で言葉のニュアンスを汲み取ります。それが感情表現になります。日本人はあまり感情を出さない文化があるので、もっと感情を出して欲しいと思いますよ。
サッカーとの出会い
ー植松さんがサッカーを始めたきっかけを教えていただけますか?
僕がサッカーをはじめたのは小学校5年生の頃、放課後のグランドで友達に誘われたことが最初です。サッカーと出会わなければ、まともなコミュニケーションがとれていなかったと思います。サッカーでお互いを理解することができたし、友達が増えたと思います。
ーコミュニケーションを活性化させてくれること以外に、サッカーに感じた魅力はありましたか?
サッカーの戦術や組織の役割など「11人」で行う意味を理解することで、団体スポーツの意味が分かりましたし、勝つ喜びを感じることができましたね。
中学時代はFWとして得点を決めることが多かったですが、チームで獲得した点だということが理解でき、喜びを分かち合えたことが大きかったですね。
ー高校生活はいかがでしたか?
正直 高校生活は楽しくなかったですね。全く知らない人が集まるので、自分を知ってもらうことからスタートします。自分のことを知ってもらう努力をしても、補聴器の存在を知らない人が多くて、「音楽聞いてるの?」とか「無視してる」など誤解を招くことが多くて疲れてしまいました。
当時は障がいについて理解されにくい環境や、具体的に伝えることができないもどかしさもあり、自分が嫌になってサッカー部を辞めてしまいました。そこからは大学進学に向けて気持ちを切り替えて勉強に励みました。
ただ、大きな変化もありますよ。実は、手話と出会うキッカケは高校2年生の時なんです。
高校2年生の落ち込んでいる時に、聴覚障がいの学生が集まって今後の進路について話し合う懇談会があり、母の勧めもあって参加したんです。そこで初めて手話と出会いました。僕の中では衝撃的な出会いでした。
懇談会がキッカケで手話を覚えましたし、手話をする人たちとコミュニケーションを多くとるようになりました。中にはサッカーが好きな人がいて、やがて一緒にプレーするようになりました。
大学3年生の時にデフサッカーチームがあることを知り、大学サッカー部と兼ねて「東京都聴覚障がい者連盟サッカー部」という、東京都で活動しているチームに入ってからデフサッカーにハマりました。そこで、手話も少しずつ覚えることができました。
―サッカーをきっかけで友達が増え、手話が上達したんですね。
そうですね。手話が上達したことで本当のサッカーが見えた気がしました。今まではなんとなくサッカーをしていただけで、本当のコミュニケーションを理解していなかった。
デフサッカーはきっちり相手の求めている事や考えを汲み取ることができて全員がまとまった時に本当のサッカーを知ることができました。理解をするのに時間がかかったと思いますね。
ー団体スポーツはコミュニケーションが一番重要だと思います。仲間を理解し合える事は大きな違いですよね。
本当に違います。デフサッカーは僕の場所だと思いました。もう少し早く知りたかったですよ。
―(松本)植松さんは、ろう学校へ進学することは考えていなかったですか?
おそらく、両親はろう学校の存在を知っていたと思いますが、「あなたが決めなさい」とチャレンジさせてくれました。
もし、ろう学校へ行っていたら、もっと楽しくサッカーを出来ていたかもしれません。でも、一般の学校へ行ったおかげで気づかされることが多くあったと思います。
音が聞こえる人たちは、音が聞こえない人の世界を知りませんし、僕も聞こえる人の世界がわかりません。じゃあ、お互いに知ってもらうきっかけになればいいかなと思いました。
最近は多様な価値観をもつ人たちがようやく認められる社会になりつつあります。多様性のある社会になるためにはお互いを理解する機会が必要なんです。
今は、ろう学校の世界も興味があります。ろう学校は野球、バレー、卓球、陸上等がメジャーな部活動でサッカー部は少ない現状です。ろう学校の生徒数にも関わっていきますが、サッカー部を立ち上げることが難しい状況であれば、自らサッカースクールを立ち上げようという原動力に繋がっています。
指導する中で大切にしていること
ーそういった植松さんの想いがあるんですね。植松さんは指導する際に大切にしていることはありますか?
僕はデフフットサルの代表になれましたが、デフサッカーの日本代表には選ばれませんでした。今年で37歳になりますが、フットサルを引退したのが30歳。頭と体がついて行かなくなってしまって、それが引退を決意させました。もともと指導することは嫌いではなかったので、現役を辞めるときは意外とさっぱりしていましたね。
ただ、代表選出基準とか全く理解できないまま現役を退いたのが心残りでした。今、監督をしていて、当時悔しい思いをしておいたことは、落選した選手の心情に配慮できるのでよかったとは思いますけど。
落とされた選手の気持ちと、これから代表として頑張ろうと思う選手の気持ち、お互いの配慮ができることは選手と指導の両方を経験したからだと思います。気配り・心配りを行いながら、指導者と選手との関係性は大切にしたいと思っています。
ー1度悔しい経験をしている植松さんだからこそできることですね。
サッカーの監督は技術・スキルについて教えることが多いイメージがありますが、僕の場合、選手とのコミュニケーションが大切だと考えています。選手の見えない部分を引き出して、良いプレーができる状態に持っていくために、「何かあったのかな」と察する力こそが監督に必要な力だと思っています。
一緒に活動している代表コーチも、もともとデフサッカーのキャプテン経験がある人で、コミュニケーションが大切ということに理解がある方なので、選手に何か問題があった時は「どう歩み寄っていけばいいか」を一緒になって考えてもらっています。
デフサッカー選手は貴重で、しっかりと育てて行きたいので、代表から落選した選手にも落選理由をしっかり伝えて成長を促しています。
―選手が何を求めているのかをいち早く察することが監督として必要ということですね。
デフサッカー日本代表はピッチ、ピッチ外問わず声を発しません。大声を出さなくても、コソコソしなくても、どういうコミュニケーションをとっているのか読み取ることができます。
ですから、僕はピッチでの会話やピッチ外では誰と一緒に食事をしているのかなどの相性を見ています。コミュニケーションをいち早く読み取るために、僕らの世界は手話が読み取れる人が必要なので、重要なポジションに置かせていただいたつもりで代表監督をやっています。
―(松本)植松さんは監督になられてから指導者ライセンスを取得されていましたよね?
27歳の時に脱サラして、サッカーのコーチを勉強するために現役と学生を両立しながら専門学校へ進学し、2年間勉強してC級ライセンスを取得しました。
その後、デフサッカーの日本代表監督になった時に「もっと自分が成長しなければ」と実感して、日本サッカー協会へ相談しました。本来、C級からB級になるためには地域の推薦枠の中に入れてもらえないとB級を受講することができませんが、日本サッカー協会が「デフサッカーを強くするために」という僕の願いを受け入れてくれて、2018年から1年間勉強して、2019年5月1日にB級を取得しました。
ただ、ライセンスはあくまでも形で、デフサッカー日本代表が国際大会で勝てるチームにするために「自分の足りないもの」がわからなかったので、B級ライセンスをとることにチャレンジしたのが一番の理由です。
実際に講義と実技を受けてみて、他の指導法など、デフサッカーと重なる部分を探しながら勉強ができたので、去年は充実した一年を過ごすことができました。
障がいの認知を広げるために
ーデフサッカーの指導以外に活動はされていますか?
毎週日曜日、小学3年生~中学3年生向けにサッカーを指導していますが、企業から依頼を受けて「聞こえない気持ちを知る」というテーマで企業向け研修などの講演をしています。
あとは、2020のパラリンピックと2021のデフリンピックを成功させるために、「皆と一緒に共生できる社会を作りましょう」という内容で講演していますね。
ー(松本)講演を行うときに気を付けていることはありますか?
僕の場合、一方的に話すのではなく、「〇〇についてどう思う?」というような、対話形式の講演を行います。そうすることで、頭を動かしながらリアルを感じて、僕と接して楽しんでもらえたらと思っています。
ーデフリンピックはまだまだ認知度が低いと思います。デフリンピックを盛り上げるためにはどういった課題がありますか?
今、2025年にデフリンピック日本開催に向けて誘致を始めています。国の動きとして準備を進めていますが、聴覚障がい者の人達と絡む機会を設けることが重要だと思います。
例えば、デフリンピックもパラリンピックと同じようにポスターやのぼりなど街中で見かけるようになればいいと思いますし、聴覚障がい者の人が東京2020を助け合うことでデフリンピックも注目されると思います。CMや広告関係はお金と時間が掛かりますから、今回の取材などできるところから情報を配信していきたいですね。
僕らも注目されるように頑張らなければいけません。いろんな障がいの人と触れ合って理解することで、お互いの『ハート』を近づけられればいいなと思いますね。
ー冒頭のお話のように『社会の多様化』に向けて様々な情報を発信していくことが重要ですよね。
ゆくゆくは『障がい者』という名前を無くして、お互いが気を遣わずに助け合えるようにしたいですね。
「お困りのことはありますか?」というオープンクエスチョンではなく、「今、なにやってるの?それ手伝おうか?」というような感じで声をかけてくれた方が嬉しいです。だって、実際みんな困ることがありますから。
僕は「障がいは、人ではなく環境」だと思っています。
例えば、一昔前は電話しかありませんでしたが、僕ら聴覚障害の人はどういうコミュニケーションをとっていたと思いますか?
ー(松本)「親に代わりに出てもらって伝えてもらう」ですか?
そうですよね。でも、抵抗があるじゃないですか。本当は自分で連絡をとりたいのに。
今はメールやLINE、TV電話でつなぐ手話通訳を遠隔でできるサービスがあるなど、コミュニケーションツールが発達したことで、簡単に自分でお店の予約ができるようになりました。
電話しかない時代は耳に障がいがあるからではなく、世の中が聞こえる人のために作られていて、障がい者の存在を知らず、電話しかない『環境』だったから障がいを感じるんです。
エレベーターを例にすると、ボタン配置が高く車いすの方はエレベーターに乗れてもボタンが押せないことや目の不自由な方はボタンがどこかわからないこともありました。だから点字がついた。これも、車いすの方や目の不自由な方がいることでボタン配置や点字をつけるなど改善されていますよね。
僕たちのような耳の不自由な人は震災が起きても、緊急用ボタンを使えません。理由は緊急用ボタンは音声案内のみ使われているからです。でも、羽田空港では緊急用ボタンの横に耳マークがあって、モニターに顔が映し出されるので手話などのコミュニケーションがとれるようになっています。
羽田空港国際線ターミナルは建築時に、障がい者を集めて「こういうのがあるといいよね」という意見を合わせて作られているので、様々な工夫や設備が配備されているんですよ。
―『環境』が障がいを作っているなんて考えもしませんでした。
もっとみんなが楽しめる方法を考えてもらいたいと思います。
発想を変えるだけでみんな「普通」なんです。僕らも会話がしたいんですよ。でも周りが騒がしくて音が聞こえなければ、うるさくて面白くありません。車いすの友達がいる場合は段差がない店を選べばいいだけ。だから、場所を変えて飲むなどの小さな気配り、心配りが大切なんです。
―植松さんのお話を聞くと、自分は普段気配り、心配りを「やっているつもり」で、自己満足で終わっていました。何も分かっていませんでした。
お互いが思っている価値がずれているだけで、ベクトルを合わせることで初めて共生ができるんです。僕もお酒好きなので、一緒にお酒飲みたいですもん。
―(松本)もっとテクノロジーが進化したら壁は無くなるかもしれませんね。
そうですね。壁はなくなると思います。
デフリンピックへの意気込み
ー今年の11月からデフリンピックの予選がスタートされると思いますが、意気込みはいかがでしょうか?
代表メンバーに伝えていて、まずはアジア大会優勝、次に2020デフサッカーW杯でベスト4。最後にデフリンピック2021で優勝というステップアップ目標を掲げています。
ただ、デフリンピックでは今までベスト16に入ったことがなく、デフリンピックの予選突破に向けて勝ち癖を付けて行きたいと思っています。
ー今現在、デフサッカーの強豪国はどこの国なんですか?
前回の優勝国はトルコやウクライナ、イランといったデフサッカーへの支援がしっかりしている国が強いですね。ただ、最近ではヨーロッパリーグが開催され、デフサッカーの勢力図も少しずつ変わっています。
ーなるほど。これからデフサッカーも世界的におもしろくなりそうですね。
ー(松本)植松さん、一つ質問いいですか?デフスポーツでは軟式野球は発展していますが、硬式野球ももっと広げていきたいと考えています。まず、僕らができることはどういったことがあると思いますか?
今まで、僕の先輩は自分が引退したらデフサッカーに関わることが少なかった。現役を辞めたら自分の事ばかりで。僕は教えることが好きだったので子どもたちが楽しくサッカーができる環境を作ってあげることが重要だと思っています。
その先輩に限らず、今までは現役を引退した選手はデフサッカーへ関わることがありませんでした。でも、現役を引退した選手たちを中心に子どもたちが楽しくサッカーができる環境を作ってあげることが重要だと思っています。
僕も小さいときにもっとコミュニケーションをとって、コーチの言っていることを理解しながらサッカーをしたかったなと思うことがあります。声と手話を使いながら聞こえる、聞こえない関係なく、みんなが一緒にサッカーができる環境を作り、ヨーロッパなどで活躍する選手を育てて、デフサッカーに貢献してもらいたいです。
野球もそういった環境を整えて行くことが重要かも知れないですね。ここ(フットサルコート品川)でも野球教室をやっていますよ。
場所や道具を上手く使って練習方法を見つけて、目を発達させるような聴覚障がい者ならではの練習法を見つけることが重要ですね。
ぜひ、デフスポーツをやっている場所に足を運んでもらって見てほしい。デフサッカーは全体ではなく、アイコンタクトや手話などコミュニケーションするタイミングなど一人の選手に注目して見ていただくともっとおもしろくなりますから。
ー最後に東京2020に期待していることはありますか?
パラリンピックの良さは、障がい者と健常者の協調性や助け合いがすごく出ていると思っていて、パラリンピックが終わったあとに、共生社会を作るために「こうあるべき」というようなヒントが表れてくると期待しています。
ですから、「オリンピックは行くけど、パラリンピックにはいかないよ」ということではなくて、オリンピック、パラリンピック両方楽しんでもらいたいです。
そして、2021に開催されるデフリンピックにも応援してくれる人が増えれば僕らも力をもらえるので。