甲子園に魅了されて、人生を決めたセクシーすぎる声を持つウグイス嬢の物語。~センバツ高校野球が中止になった今だからこそ伝えたいこと~
GUEST: 藤生 恭子(ふじう きょうこ)
兵庫県伊丹市出身のフリーアナウンサー
常総学院高校~駒澤大学
2005年~高知ファイティングドックス 球団アナウンサー
2008年~オリックス・バファローズ 球団アナウンサー
2013年~BaseballPlanning設立
2015年日本フットサルリーグ(Fリーグ)シュライカー大阪の専属アリーナアナウンサーを務める
2016年日本フットボールリーグ流通経済大学ドラゴンズ龍ヶ崎の専属スタジアムアナウンスを担当
2018年Bリーグ西宮ストークスアリーナアナウンサー
その他 TV、ラジオ出演、CMナレ―ション多数
※本記事はnote移行前の旧SPODGEで2020年3月25日に掲載した記事になります。
甲子園に魅せられて
―YouTubeで「セクシーすぎるウグイス嬢」として400万回以上再生され、ウグイス嬢という仕事を世間に認知させた第一人者だと思います。 これまでのキャリアを教えて下さい。
私は兵庫県伊丹市出身で甲子園球場が近くにある環境で育ちました。小学6年生の時にバレー部に所属していたのですが、先生が「今日は練習をやめて甲子園の決勝を見るぞ」ということになり決勝を見ることができました。決勝を見るためにどうやって部活を休もうか考えていた私には願ったり叶ったりでした。
この決勝が、野球をしっかりと見たはじめての経験だったと思います。試合は大阪桐蔭高校が初出場初優勝し、投手の和田 友貴彦さんを見て「人が輝く」ということを感じました。
中学1年生になった甲子園は、あの「松井秀喜選手の5打席連続敬遠」の時でした。中学2年生は地元兵庫県代表の育英高校が全国制覇し、中学3年生の春センバツで智辯和歌山が全国制覇し、準優勝が常総学院でした。
甲子園を見て、高校の志望校が決まりました。自分の高校の制服を着てアルプスで応援したいという想いだけで、兵庫県から茨城県の常総学院に進学することにしました。
そこでまさかの事件が起こります。野球部のマネージャーになれないことが入学してからわかりました。1ヶ月間、職員室とグラウンドに行って入部のお願いをしましたが「規則は規則だから」ということで叶いませんでした。高校での野球部マネージャーは諦め、サッカー部のマネージャーをすることになりました。
そして、大学東都リーグの強豪である駒澤大学に進学し、やっと念願の野球に携わる事ができ、大学3年時には選手のおかげで大学日本一を経験させていただきました。
当時はマネージャーでも女子は甲子園のベンチに入れない規則でしたが、柳川高校(福岡)の部長先生が女性であることを知って、教員免許を取得すれば甲子園に入れるかもしれないと思って大学では教職課程の単位を取得しました。
教育実習では、母校の常総学院社会科で満枠になって受け入れてもらえず、明徳義塾高校が受け入れてくれることになり、中学1年生の時見た馬淵監督と出会うことになりました。
―すごい縁ですね!
就職は当時アルバイトをしていた日刊スポーツの記録室という全てのスポーツの記録を扱う部署でアルバイトの延長のようなカタチで働き始めました。
―学生時代のアルバイトが社会人になっても続いていくとは。アルバイト一つとっても目的を持って選ぶことが大切な好例ですね。
目指せ、プロ野球!
社会人になり記録室の仕事は充実していましたが、スポーツの現場に出たいと考えるようになりました。そしてネットを見ているとFM岡崎でパーソナリティー募集のオーディションが目に止まり、すぐに応募したところ、まさかの一発で採用となりました。
後から聞いた話ですが「鼻濁音」や「無声化」という普通は練習しないとできないアナウンス技術ができていたということでした。母親がNHKのアナウンサーであったため、0歳からその声を聞いていたので自然と身についたのかもしれません。
そこから、新聞やネットで野球大会に関する情報を得て、大会事務局へ「ボランティアでいいので試合のアナウンスをさせていただけませんか?」と連絡を行う日々が1年以上続きました。最近の営業マンより当時の私の方が電話をした自信があるくらいです(笑)
アポイントすらいただけない時には、各県の高校野球連盟に履歴書を持って飛び込み訪問もしましたね。
―プロ野球にはどのように行き着いたのでしょうか?
2005年、四国独立リーグの関係者から「お金は払えませんが、協力いただけますか?」と連絡をいただき、「野球のアナウンスができるのであればどこでも行きます、何でもやります」と即答しました。
そこから独立リーグの試合でアナウンスをさせていただけることになりました。当時は、岡崎に住んでいたので、夜行バスで試合の度に通いました。もちろん、活動もボランティアなので、アナウンス活動をすればするだけ赤字でしたね・・・笑
そして、3年が経とうとした時、高知ファイティングドッグスから「職員にならないか?」と声をかけていただき、職員として働くことになりました。高知ファイティングドッグスではアナウンス以外の試合運営全てを学ぶことが出来ました。
高知でアナウンスをはじめて2か月後、オリックス・バファローズと高知ファイティングドッグスのオープン戦が東部球場(高知県)でありました。
試合中にオリックス関係者から「NPB(セ・パリーグ)でアナウンスする気ある?」と突然聞かれました。即座に「そのために修業をしています!」と答えたところ「じゃあ来年からうちでやらないか?」とお誘いをいただきました。
オリックス入団後はファーム(2軍)を担当させていただくことになりました。高知ファイティングドッグスでは、場内アナウンスをしながら、場内音響を操作し、試合のスコアブックを書きながら、アルバイトさんへ運営指示を行っていました。2軍は経費がかけられないから裏方は何でもできた方が良いと考えていた後の上司曰く、様々な業務に取り組む私の姿が一番印象的だったみたいです。
―今までの努力の賜物ですね。
藤生恭子の奇策
そして、入団5年目にあの「セクシーすぎるアナウンス」が話題になりました。
当時は、イチローさんのメジャー移籍、清原さんの引退でオリックス全体の観客動員が減り、ましてや2軍となると極端に少ないことがありました。
そこで私は考えました。
私にできることは「声を通してお客さんに球場へ来てもらうこと」なので、球場に来る理由の一つが「アナウンス面白いから見に行こう」でも良いと思ったんです。きっかけは何であれ、「野球」というスポーツを知ってもらえたらそれで良いと。
2軍の試合を見にくる人=野球が大好きな人。つまり、野球好きでないと球場へ行こうと思わないんです。じゃあ、野球に興味のない人がどのようにしたら球場に足を運んでくれるかを必死に考えた結果、あのアナウンスに繋がったわけです。
そしてYouTubeにUPされ話題になりました。自分以外のスタジアムアナウンサーも注目されるようになって嬉しかったです。「ウグイス嬢」という仕事が注目され野球やそのスポーツが盛り上がればそれで良いと考えています。
こうした思いから、いろいろなアナウンサーも活躍してほしいと思い、アナウンススクールを作りました。アナウンススクールからは甲子園、楽天、西武、オリックス、ソフトバンク、ヤクルト、テレビ和歌山、その他ローカルテレビ局にもたくさん生徒を輩出しました。
学生へのメッセージ
―最後に、学生へメッセージをお願い致します。
私は、甲子園によって人生が決まりました。その中で感じたことがあります。
まずは自分より目上の方の考えや意見を知る、ついていく、教えていただくという姿勢が
夢をかなえる第一歩だと思います。
そして「縁」に感謝すること!
15年前に採用頂いたFM岡崎の大野先生には今でも近況報告は欠かしません。大野先生がいなければ今の私はありません。
今、サッカーでもお仕事させていただいているのは、高校の時に野球は無理だったけどサッカー部にお世話になったからだと思います。
目の前に起こることに遠回りはなく、その時に必要なことが起きているのだと感じました。
意思を強く持ち感謝の気持ちを忘れなければ、運も縁も後からついてくるものだと思います。
先を見据えて、チャレンジして欲しいと思います。
―本日はありがとうございました。