「スポーツには人を変える力がある」。陸上棒高跳び選手、荻田大樹のスポーツへの想い。
GUEST:荻田大樹(おぎたひろき)
陸上選手、専門は棒高跳び。中学から棒高跳びをはじめ、高校、大学、社会人と活躍。
世界選手権やリオオリンピックへ出場。
※本記事はnote移行前の旧SPODGEから2021年1月25日に掲載した記事になります。
「跳んで」変わった世界
ー種類が数多くある陸上競技の中で、棒高跳びを選んだ理由を教えてください。
陸上競技は、足が速かったので「陸上をやってみないか」と誘われ、小学4年生の時に陸上クラブに入りました。当時は短距離、リレー、走り幅跳びをやっていました。
正式に棒高跳びを始めたのは中学へ入学してからです。
陸上部顧問の先生から入部してすぐに「荻田は棒高跳びだな」と言われました。
身長も高く、ある程度走力もあったので、元棒高跳び選手だった先生が判断したことですし、棒高跳びの存在は小学生の時から知っていたので「やってみようかな」という軽い気持ちで始めました。
ただ、半年間は「ただ棒を持って走る」という地味なトレーニングを繰り返してましたね。跳ぶ練習ではなく、先輩のマネをしてひたすら走っていました。いや、正確には「走らされて」いました。
そして、1年生の秋、練習で一度も跳ぶことがないまま本番を迎えます。バーの跳び越え方も知らず、先生から「跳べ」と言われ、初めて棒高跳びを行いました。
結果は、優勝です。一年生だけの小さな大会でしたが、初めての棒高跳びで優勝をしました。
今まで優勝というものに触れたことがなく、そこで一番になる喜びを知りました。優勝してからは少し調子に乗ってしまいましたね(笑)
ー初めて挑んだ棒高跳びで優勝・・・驚きです。
ただ、その後は上手くいかず、中学3年の時、全国大会へ出場する事ができましたが、全く歯が立たず悔しい思いをしました。
もちろん、高校でも棒高跳びがやりたいと思い、中学陸上部顧問の恩師にあたる棒高跳びで有名な詫間茂(たくましげる)先生が指導する観音寺第一高校へ進学したいと考え、夏頃から受験勉強を必死に取り組み、無事、観音寺第一高校へ入学する事が出来ました。
ースポーツをするために勉強も頑張る。アスリートの鏡ですね。有名な指導者のいる高校での競技成績はいかがでしたか?
観音寺第一高校へ入学してからはものすごい勢いで成長しました。
詫間先生から少しアドバイスを頂いただけで50cmもベスト記録が伸びました。昔から身体だけは日本一と言われ続けてきましたが、テクニックも加わり、ジュニアオリンピック(高校1年生までが出場する大会)で初めて日本一を獲得しました。
高校2年で、国体選手(高校の部)に選ばれましたが、9位という残念な結果に終わりました。
この成績がものすごく悔しかったことを今も覚えています。いつも指導してくれた先生、サポートしてくれた家族や周りの方に、「何も返せなかった」という気持ちと、今まで競技をやらされていたという感覚を持っていたことに反省しました。
これを機に、自分の中で競技に対する想いや考え、取り組み姿勢が大きく変わりました。
そして、翌年の国体では、見事リベンジを果たし優勝することができました。高校2年の時に、競技に対する考えを変えていなければ、高校3年の優勝はもちろん、今の自分はいなかったかもしれません。
ー詫間先生はどのような指導をするのでしょうか?
テクニックももちろんですが、人間性を重視して指導する方でした。挨拶や感謝の気持ちを自然と大切なことだと教えられたと思います。
「どんなに結果を残しても、人がそこにいなければ価値もない。応援される人になれ」ということを仰っていました。
僕も先生のような体育教師を目指そうと、大学は体育大へ進学を考えていましたが、大学へ行けば色々と環境が変わる中でやりたいことが変わっていく可能性もあると思いなおし、詫間先生の薦めのあった関西学院大学へ進学しました。
考えることは「楽しむこと」
ーその後、荻田さんは日本代表、オリンピック出場と輝かしい舞台で活躍するんですね。初めて日の丸のついたユニフォームを着たのはいつでしょうか?
大学1年の時に、世界ジュニア大会で日本代表として選ばれました。特に両親が大喜びしている姿を見て嬉しかったですね。
ただ、初めて行く海外では食事が体に合わず、いいパフォーマンスが出来ませんでした。
ー日本代表としていつから活動しているのでしょうか?
2013年の世界選手権から2017年まで日本代表として活動しています。その中で、2016年(27歳)にオリンピックへ出場しました。
2013年の日本代表に選ばれた時の面白い話があるんです。
2012年秋に肩関節の鍵盤が断裂し手術をしました。復帰は2013年の4月頃と聞いていたので、走るトレーニングだけ取り組み、跳ぶことは動画を見てイメージトレーニングをしていました。
そして4月のアメリカ大会を迎えます。当時は「復帰戦だし、今シーズンは徐々に調整していこう」と考えていましたし、「競技者としてこれまでと同じレベルで戦えるようになるのかな」と不安を抱えて迎えた試合でした。
結果、自己ベストを更新し日本代表に選ばれました。驚きましたね(笑)
ー陸上競技は数cm、数秒を争う競技ですが、荻田さんは競技を取り組む中でこだわっているポイントはあるのでしょうか?
「楽しくやる」ことですね。
勝ち負けは人との関わり合いなので、自分自身では操作できないことだと思っています。だから、一生懸命自分のベストを出すことに集中します。その結果で勝ち負けを楽しむようにしています。
昔は「代表になりたい」とか「一番になりたい」と思っていました。
ただ、社会人になり、記録を出して家族を安心させたい、応援してくれる人に良い報告がしたいと思っていました。
だからこそ、楽しんでチャレンジすることを自然と意識しているのかもしれないです。
スポーツの力が「人を変える」
ーオリンピックは他の大会とは違うものでしたか?
オリンピックでは『周りの環境』が変わります。世界選手権は陸上関係者がすごく盛り上がってくれて嬉しかったですけど、オリンピックとなると色んな人達が「オリンピック出場おめでとう!」と応援してくれて、地元の自治体からもお祝いなどを頂きました。
あとは、競技を取り組む意味を改めて知ることができたと思っています。
陸上競技をやっているのであれば、オリンピックに出場して結果を残さなければ自分がやってきたことの意味はないと考えていました。ただ、オリンピックを経験し、競技を続けることで多くの人と繋がることができました。
オリンピックに出場した僕自身に興味を持っていただけますし、スポーツを通じた繋がりがあることに気付くことが出来ました。
競技を通じて沢山の方々と繋がれたことは、僕の大きな財産ですし、陸上競技を続けていた意味だと思っています。
ー今後、陸上クラブを開き指導されたいとお聞きしました。その準備に専念されず、並行して競技を続ける理由を教えてください。
競技を続けているからこそ、出会える縁がありますし、デュアルキャリア(競技と仕事の両立)を体現することで、次世代の子どもたちに伝えられるものがあると思っています。
僕は競技結果に依存した勝利至上主義にしたくないんです。競技結果は一過性の価値であって、スポーツの価値はそこ(だけ)ではないと思うんです。
スポーツを取り組む先に、勝利ではなく、人との繋がりや、人間としての成長が目指すところだと思っています。
勝利することをゴールに設定している人が多いですが、そうすると過程のどこかで躓きますし、辛い思いをすると思います。
こういった考えを僕も陸上競技を通じて学んできました。だからこそ、未来ある子ども達に「スポーツの力で人は変わることが出来るんだよ」ということを早くから伝えていきたいと考えています。
陸上は走る、投げる、跳ぶというスポーツの基本動作があります。この基本動作を知って、自分の強みを知り、子どもたちが出会うはずの『やりたいこと』に活かして欲しいです。
僕が運営する陸上クラブを通じて、自分で考えること、体を動かすことへの興味や楽しさを知ってほしいです。運動好きをもっと増やしたいと思っています。
そして、クラブからの卒業生は「荻田が指導するクラブ出身の子か。だからしっかりしているんだ」と評価いただけるような陸上クラブを作りたいと思います。