見出し画像

スポーツの経験は自分の糧になる~大和ハウス工業株式会社 代表取締役社長/CEO芳井敬一~

GUEST:芳井敬一(よしいけいいち)

大和ハウス工業株式会社代表取締役社長/CEO
中央大学文学部哲学科卒業、神戸製鋼グループの神鋼海運(現・神鋼物流)へ入社。ラグビー選手と仕事の両立に取り組む。
1990年(平成2年)に大和ハウス工業株式会社(以下、大和ハウス工業)へ入社。神戸支店神戸建築営業所長をはじめ、姫路支店長、金沢支店長を経験した後、取締役上席執行役員 海外事業部長、取締役専務執行役員 東京本店長 営業本部長などを経て、代表取締役社長/CEOに就任。

※本記事はnote移行前の旧SPODGEで2021年5月17日に掲載した記事になります。



ラグビーに振り切った社会人生活

ー社会人では4年間ラグビーに取り組まれたとお聞きしました。もともと社会人では4年間しか取り組まないと期限を決めていたのか、それとも、出来る限り続けようと考えていたのでしょうか?

まず、大学卒業後はラグビーを続ける予定ではありませんでした。
私は小学校の教員になる夢をもっていたので、教員免許の取得に向けた大学進学か一般就職という選択肢でした。

大学4年生の夏合宿では、自分の力量としては大学の試合に出場するのが精一杯だと考えて、最後のシーズンを頑張ろうと思っていたのです。しかし、夏合宿で怪我に見舞われてしまいました。

怪我からは復帰することができましたが、当時の大学ラグビーのリーグ戦は6試合ほどしかなく、結局1試合しか出場できませんでした。

ラグビーでやり残したことが多かったので、ラグビーをするために神戸製鋼グループに入りました。大学の先輩も神戸製鋼ラグビー部には多く在籍していて、声を掛けていただいたことも一つのきっかけです。

この選択は大きな選択になりました。 

ー選択をする際、当時の芳井社長は相当悩まれましたか?

いいえ、私は、迷うことなくラグビーを選びました。リーグ戦に出場できなかった消化不良を残すことは絶対にしないと考えていました。

大学時代、1年生の頃は「ラグビーマガジン」という専門誌で取り上げていただいたこともありました。ただ、リーグ戦への出場は怪我の影響もあり、なかなか機会がありませんでした。
そして、3年生になり、リーグ戦出場を果たしました。3年生までにリーグ戦に出場ができなかったら大学を辞める決意を持っていましたので、とても達成感がありましたね。

ーそして、神戸製鋼グループへ入社し社会人としてラグビーに取り組まれていらっしゃいます。ご入社された時は、ラグビーと仕事に対する向き合い方はどのような考えを持っていたのでしょうか?また、当時のラグビーに取り組む環境はどのようなものだったのでしょうか?

ラグビー部は8時~17時まで仕事をし、18時から練習を開始します。火、水、金が練習日として設定されており、木曜が自由練習、土日は練習試合か試合というスケジュールでした。
仕事を優先する環境なので、練習開始時は8人くらいから練習が始まります。

当時、バレー、陸上、野球はスポーツ団体として認定されていました。彼らは昼まで仕事をして、午後は各競技に取り組む。一方、ラグビー部は調達、運輸、機械管理などフルタイムでしっかりとした仕事をしなければならない環境にありました。

この環境で関西リーグ2位の成績を残せていたのはすごいことだと思いますね。

ーラグビー引退を決めたきっかけは何があったのでしょうか?

素晴らしい選手が多い中、更に努力を重ねる選手がいたことです。

私の同期で『菅野有生央(すがのゆきお)』という同志社大学出身の選手がいました。彼は特別足の速い選手ではありませんでしたが、努力の量が人並み外れていました。

当時、菅野と同部屋で暮らしていました。六甲山にある神戸製鋼ラグビー部寮から会社へ向うのですが、彼は朝走って向かいます。
朝は山を下るので、走って向かうのはわかりますが、彼は練習後も走って帰るのです。

他にも大学時代に活躍した有名選手が仕事前後に自主トレを行うなど、主体的に練習する選手ばかりでした。

自分より上手い選手がさらに努力をする姿を見て、差が開く一方だと思いました。

ーラグビーをする目的で入社した会社ですが、引退後の目標や目的は考えていたのでしょうか? 

ラグビーで入社したものの、ラグビー部員は仕事を優先する環境があったので、ラグビーを引退しても大きな心境の変化はありませんでした。

私の運が良かったのは、会社の人事システムを開発するというプロジェクトに参加させてもらえたことでした。プロジェクト成功に向けて必死に動くことが出来ましたね。

この人事システム開発を通じて学んだ事が、私の考え方のベースになっていると思います。

当時の上司から「あるべき姿を考えてから、取り組みなさい」という言葉をいただきました。
あるべき姿に対し、必要なものだけを残し、他はそぎ落とす。これが目指しているものへの近道になるということでした。

挑戦するのであれば一番厳しい環境で

ーその後、神戸製鋼のグループ会社から大和ハウス工業へ転職されます。スポーツで入社した会社からキャリアチェンジする際になぜ大和ハウス工業を選んだのでしょうか?

まず、ラグビーを辞め、人事システムの開発プロジェクトが終わり、さぁどうしようかと考えました。

その時に、高校の友人が海外留学をしており、彼らの話を聞いた時に英語の勉強がしたいと思いました。英語を操って仕事をすることがかっこいいという理由です。

英語の勉強をするのであれば、日本で勉強するよりも思い切って留学したほうがいいと思いました。

そこで、会社へ90日間の休日を申請したところ、一旦は却下されましたが、どのようにしたら留学できるのか考えラグビー部の部長を通して相談したところ「行ってくればいい」と許可をいただきました。
自分で学校やホームステイ先を見つけ、いざ、英語の勉強のため90日間留学へ行きました。

留学から戻り、28歳の時、神戸製鋼の建設機械課海外事業部へ異動になりました。そこで、建設機械課がボルチモアに工場を造るというプロジェクトに選ばれました。
ところが海外留学での経験が活きると思っていた矢先、交通事故に遭いそのチャンスを逃しました。

その時に、「人生はよくわからない、掴んでは離れていく」と感じました。「英語で仕事をすることがかっこいい」というだけの甘い考えだったので、罰が当たったのだと思いましたね。

結局、仕事には8か月間、復帰できませんでした。そして、復帰と同時に「1年で退職しよう」と決意し、1年間必死に業務に取り組みました。

ここから、大和ハウス工業へ入社した経緯をお話します。

当初、私の中では営業はやりたくないことであり、母からは「営業と不動産業はやるな」と言われていました。ただ、当時行った適性検査で営業適性があるという結果が出ていたため、もしそうであれば、一度チャレンジしてみよう。そして、やるなら一番厳しい環境のある会社でチャレンジしようと思いました。

3月末に神戸製鋼のグループ会社を退職後、転職先として最終まで残ったのは商社、航空会社、そして大和ハウス工業の3社でした。商社、航空会社はタイミングと条件が合わなかったこともありご縁がありませんでした。残る大和ハウス工業は厳しい会社と理解していましたが、自分が考えていた条件を満たしてくれました。

条件は6月1日から就業させてほしいこと。そして、2週間のアルバイト期間を設けてほしいこと。しっかりと試用期間を設けて、お互いの理解を深めて正式に判断したいという意図でした。
そして、2週間の試用期間を終えた時に、「私はここで勤めたい」と申し出たところ、「一緒に働きましょう」と返答いただき、入社しました。

余談ですが、面接時にコーヒーを運んできた方が立命館大学ラグビー部出身で、私の経歴を見て「採用するべきだ!」と言ってくれていたみたいです。ラグビーが繋いでくれた縁ですね。私はこういう所でも恵まれました。

ースポーツが繋いでくれた縁かもしれませんね。

そうですね。他にも、私よりも年下の上司が一生懸命私に仕事を教えてくれました。真面目な方で、お客様からいくら断られても挑んでいく方でした。

スポーツの経験は自分の糧になる

ー体育会は上下関係が厳しい世界だと思います。芳井社長は大和ハウス工業へ入社した際に、年下の上司から指導を受けるなど違和感はあったのでしょうか? 

全くありませんでした。
大学時代に高校の同期が1つ下の年代でラグビー部へ入部してきました。こうした、年齢と学年が違うということは大学時代経験していたので、大和ハウス工業へ入社した時も1年生らしく、ゴミ捨てや掃除を進んで取り組んでいました。

自分の居場所は、自分でつくるという考えのもと行動をしていたのだと思います。
大学の寮生活を経験したからこその考えですね。

他にもスポーツから学んだことはたくさんあります。

スポーツは時間が決まっています。試合時間もそうですが、高校は3年間、大学は4年間と時間が決まっていますよね。その期間で自分のストーリーを描くなら何をするべきかを考えることが必要です。

社会人ではどうでしょうか。定年退職の年齢だけが決まっていて、自分のキャリアや生き方を考える時間がありますが、なかなか決断は下せません。

ですから、私は「決める方法を決める」ことをしています。

例えば、魚を食べるか、肉を食べるか、フルーツを食べるか議論すると、なかなか決まらないですが、〇時〇分に多数決で決めようと決める方法を決めてしまえば、決まります。

決める方法、決め方について何をきっかけに決定するのかを常に考えておくべきです。

ーこのような考えはいつからお持ちでしょうか? 

高校時代からかもしれません。高校時代は、監督から勧められた大学へ進学しようと決めていました。

小学校の教員免許を取得できる大学として、日本体育大学というイメージもありましたが、最終的に監督からのアドバイスもあり中央大学へ進学しました。
幸いにも、中央大学文学部哲学科では、教員免許を取得できるチャンスがありました。

もし、中央大学に教員免許を取得できる学部が無かったとしたら、中央大学へは入学をしていなかったと思います。

中途半端に入学して、途中で退部などすれば、後輩に影響すると思っていました。
決め方を決める話ではないですが、辞めるときは「○○の理由が揃ったら辞める」と自分で線引きをしておくべきです。

スポーツで自分の力が通用しないと感じた後も、そのスポーツにしがみついても成果は出ません。成果が出ないと感じたらスパッとやめてしまうべきです。

スポーツでは結果を残せなかった人も、試合に出られなかった悔しさをバネに、ビジネスのフィールドで活躍している人も多くいらっしゃいますから。

貰ったものは後輩のために

ーお話を伺っていると、芳井社長の中でスポーツ(ラグビー)の経験が大きく影響していると感じました。また、「自分自身の行動が後輩に影響する」という言葉が先ほどありましたが、芳井社長は「後輩に残す」という言葉を大切にされているとお聞きしました。

年下の上司から教えていただいたように私も後輩に伝えていくべきだと考えています。
時には厳しい指導も必要ですが、大切なのは、お互いの距離間を詰めておくことです。同じことを伝えても距離が遠い場合、パワハラと受け取りますが、距離が近いとアドバイスだと受け取り側の気持ちが変わりますよね。

ー今の時代、『指導』に対する目が厳しくなっていると思います。現在の指導について芳井社長はどのように思いますでしょうか?

「あなたを見ている」ということが伝われば良いと思います。私は主に電話で伝えますが、悩んでいる社員には「大丈夫か」と声を掛けたり、逆に「頑張れよ」と伝えたりすることもあります。
見ている、想っていること(本心)が伝わればパワハラなども無くなると思います。

フルネーム、趣味、どのようなことで笑うかということまで知っているかは大切です。今の時代、一人ひとりそれぞれ教育方法が違います。一方的な「俺の背中を見てくれ」は通用しませんから。

ーありがとうございます。最後に、スポーツや就職活動を頑張っている学生へメッセージをいただければと思います。

精一杯やってほしいです。スポーツでも、仕事でも「頑張る」と決めた人には必ずチャンスは回ってきます。努力を続ければチャンスは必ず訪れますし、見つけることもできます。
どうか、そのチャンスを見つけて、活かしてください。